確率なんて大嫌いだ…

京都大学工学部
盛川 仁

私は子供の頃から,算数だの数学だのという科目をおもしろがるという,ほんのちょっとだけ変な子でした。しかし,なぜか確率という分野だけは大嫌いで,どうして赤玉や白玉のでてくる割合をそんなに目くじら立てて議論するのかさっぱりわかりませんでした。学年が進むにつれて私の確率嫌いも年期が入ってきて,京都大学の入試で必ず出題されていた確率の問題も無視することに決めていました(実は,他の問題が難しくてよくわからなかったために時間が余りまくった挙げ句,暇潰しに確率の問題を読んでみたら超簡単で,この問題のおかげで得点を稼ぐという皮肉な結果になってしまいました)。大学に合格した時,”もう一生確率なんかとはオサラバだ!”と心の
底から思ったものです。まさか大学でコチコチの確率論を己の研究テーマにして,ましてや学位をとろうなどというだいそれた行動に出るとは努々思ってもいませんでした。

しかし今から思うと,どうも私の意志とは無関係に確率論とは縁があったようで,先程述べた入試の時も然りで,また,こんなこともありました。もう10年以上も前(!)の高校時代のある日,電車に乗って通学をしている最中,
突然,私は将来を予言できると宣言したのです(この先の数学的・物理的な議論を全部止めにしていれば,きっと今頃は世界に名だたる大宗教家,もしくは大占師になっていたかもしれません)。電車が1本の線路の上を走っているからには,今乗っている車両は0.xx秒後には一両前の車両と全く同じ動きをするに違いないわけで,当然前の車両の動きをみていれば0.xx秒後の自車の動きを予言できるだろうという,実に他愛の無いものでした。愛すべき友人達は,自信に満ちあふれた私の顔を穴があくほど見つめたあと,少し間をおいて,直ちに私のこの素晴らしい考えをたたきのめすという楽しい作業に取り掛かりました。曰く,車両によって構造や重量が違う,乗客の数や乗車位置が違う,だから2つの車両が同じ様に動くはずがない,等々というわけです。全くもってそのとおりです。

やはり凡人には予言は向いていなかったのでしょうか。

当時,物理学を使えば何でも説明できると信じていた純真な高校生にとっては,電車のような複雑な系を物理法則のもとで厳密かつ確定論的に議論することは,原理的には可能かもしれないけれども,現実にはとても大変なことであるということを,”体で”理解させられた最初の経験でした。いずれにしても,この素晴らしいアイディアはしばらくの間,私を捉えて放しませんでしたが,結局,忘れてしまいました(凡人のなせる技です)。しかし,この時の,この感覚は私の中を伏流水のように流れつづけていたように思います。後に確率を本格的に扱うようになってから,この感覚が私の勉強や研究をすすめる推進力の一つとなったからです。

時を経て,卒業論文を書く段になって,どういう経緯か忘れてしまいましたが,道路橋の上に自動車が荷重として載っかっている確率を考えることになりました。一生オサラバしたはずの確率に面と向かったとき,ちょっとだけ目眩がしたような気がします。気をとりなおして卒業し,修士課程にすすんでからは,道路橋の地震応答解析をやるつもりでそれなりに準備をはじめました。ところが,博士後期課程に進学しようということを決めた瞬間に目標の大変更を敢行しました。地震波動場を確率論的に内挿するための方法論の開発をテーマにしたのです(研究方針を詰めていく過程で,指導教官の誘導にうまい具合にのせられていたような気がするのは,多分気のせいだと思います)。このときから確率三昧の日々が始まりました。最初,確率過程論を前にした時,少し強い目眩に襲われたことを記憶していますが,何とか立ち直って修了することができました。博士後期課程に進学すると,修士論文でやった研究をどんどん推し進めていくというのが当面の課題になりました。元来,私は単純な性格ですから,やりはじめるとすぐにハマってしまいます(英会話だけは例外です)。瞬く間に泥沼にはまって首までつかってしまい,今日に至っています。

1年先のことなんてわからない(1年先の予定表が詰まっている人もいるかもしれませんが),ということをよく言いますが, まさか7年も都市耐震センターにいて,しかもその間確率にどっぷりとつかった生活をするなんて学部生の頃には思ってもみなかったことです。都市耐震センター配属の学生として最長在籍記録を樹立しておきながら,お礼の言葉の一つもないとは失礼な奴だと思われそうですが,書き始めればきりがないですから,この際,これまでの先輩諸氏と”以下同文”という一言でお終いにさせていただきます。4月から工学部交通土木工学教室の路線施設学講座へ助手として通いはじめました。なにかと不慣れな点もあり,まごつくことが多いのですが,都市耐震センターで身につけた経験がいつも力になってくれると信じてやっております。

これまでずっと続けていた自動車通学から足を洗って,10年ぶりに電車で通うようになりました。そんな事情もあってか,電車にゆられながら,時々ふと例の「予言」を思い出しては一人笑っています(はっきりいってこれはもう怪しさ百人前です。気を付けねば…)。それにしても電車の予言をするためには,どこまで確定的な議論が可能で,どういうところを確率論的に扱うのが妥当なのでしょうか。言い換えれば,どの次元でこれら2つの概念の住みわけを考えるのか,いやむしろ融合を考えていくのかということです。
一朝一夕に答が得られるような問いではありませんから,私の将来の課題にとっておこうと思っています。

私にとってはもう確率論というのは生活の一部になって,すっかり根をおろしてしまっています。しかし,世の中ではどうも確率論というものはとうてい受け入れがたいと考えている人もいるようです(最近思い知りました)。
そんな人たちが,かつての私と同じ様なことを言っている様子が目にうかびます。彼らといっしょに実りのある議論を行なおうという場合には,最初に話をあわせるところからはじめておけば,あとは何とでもなる,と私は考えています。合言葉は,

「確率なんて大嫌いだ!」

都市耐震センター研究報告 No.9 (1995/03)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です